嫌いな奴

 八巻隆治は急いでいた。 
 何のことは無い、バイトに遅れそうになっていたからだ。
 シフトは午後四時から。時刻は三時四十分。バイト先は自転車で十五分。五分で着替えか。厳しいな。 
 どこか詰められるところがあるかな、と頭の中で目算しつつ、階段を一段飛ばしに駆け下りて、下駄箱へ滑り込む。掴んだローファーを昇降口へ叩きつけるように放って、上履きをぞんざいに突っ込んだ。 
 玄関を出て駐輪場まで早足で向かう。八巻の乗る自転車は何の特徴もないシルバーフレームのクロスバイクだ。そそくさと解錠し、サドルに跨りペダルに足を掛ける。その時、
「あ、八巻。正門に津田いるぜ」
 と、向かいからやってきたクラスメイトが、手に下げたコンビニの袋をガサガサと鳴らしながら声を上げた。
「まじか」
 溜息混じりに呟けば、クラスメイトは「まじ」と小さく笑って手を振ると、さっさと玄関へと消えていった。
「…………津田ねえ」
 名前を呼べば一層気分はどんよりとしてくる。だけど今はそれどころではない。一分一秒が惜しかった。
 ふいに淀んだ気持ちを振り切るように、やけに重々しいペダルを力いっぱい踏み込んだ。  


 津田宗一郎。確か年齢は三十路手前で、隣のクラスの副担任だ。科学を担当し、背が高く顔がいい。なんでも四分の一はどこか外国の血が入っているとかで、あらゆるシーンで目立ち、とにかく女子生徒にモテにモテた。
 しかし一部熱狂的なファンを抱えるようなスマートな見た目とは裏腹に、性格は昔気質、やたら厳格で、熱血漢然としているところがあった。 
 比較的自由な風潮がある我が校でも、登下校時に時折思い出したかのように校門に教師が立つ。
 そして津田が立つ時は決まって厄介だった。
 津田は容赦なく生徒の風紀をそれは細く指摘するし──それもかなりの大声で──そんな津田にここぞとばかりに好んで群がる生徒たちがいるため、人の流れが滞りがちで単純に通行がしにくい。
 あえてリボンを緩めてみたり、シャツを裾から出してみたりと風紀を指摘されようとする奇特な輩が出てくるほどだ。まったく訳がわからない。 
 そして八巻はこの男が個人的に単純に苦手だった。
 特別な接点があるわけではないが、これまでの数少ない津田に関する経験上とにかくろくなことがない。
 八巻から言わせてみれば、津田はどこか天然なのだ。
 正門に向かうと案の定、津田が女子生徒を捕まえて(捕まって?)いた。 
 どうやら女子生徒の着ているカーディガンの色が指定のものではないとかなんとかと応酬しているらしい。 
 とは言え女子生徒の方からしてみればキャッキャとそれを楽しんでいる風にも見えて、好き好んで津田に関わろうとするだなんて、と勝手に呆れた心持ちになってしまう。 
 そんな一団を遠巻きに確認した八巻はできるだけ気配を殺し、そろりと正門の端の方を通り抜けようとした。
 しかしその時──。
「おい、そこ! 二人乗り禁止!」 
 腹の底から出された大声が後頭部のあたりに直撃した。
 同時に、津田を囲んでいた女子たちが振り向き、「あ、八巻だ」「八巻バイバイ!」と親切に名前を呼びながらそれぞれに声を上げる。続いて「二人乗りって?」「ただの八巻じゃん」「何言ってんの津田ちゃん」と予想通りの会話が繰り広げられていた。
 そしてその中で一番怪訝な表情を浮かべているのが津田なのだ。本当に質が悪い。 
 八巻はそれを視界の端でとらえながら、こっそそり急いで、逃げるようにその場を離れる。バイトの遅刻はほぼほぼ決定だ。
 しばらくペダルを漕いでから、大きな溜息をひとつ。
「……だから嫌いなんだ」 
 ひとりごちると、くく、と背後の気配が揺れて、それからぼそぼそと意味のない言葉が途切れることなく次々と投げかけられる。
「うるせえ、しゃべんな!」
 と、苛々と思わず叫べば、前を歩いていた無関係な生徒がびくりと肩を震わせ振り返った。
「ああもう、せっかくシカトしてんのに」 
 どうすんだよこれ。と肩を落として大きな舌打ちを一つかますと、先ほどよりもさらに重く感じるペタルをやけくそな気持ちで踏み込んだ。
 

Site top

inserted by FC2 system