喫茶檸檬

 レモンケーキにレモンティー。レモンのムースにレモンタルト。
 テーブルの上で濃淡様々にさんざめく黄色は一様に美しく、しかしその光景は少し――いや、大いに不思議なものだった。
 喫茶『檸檬』。その名の通り、店内はレモンにまつわるものであふれていた。看板メニューはレモンのスイーツ。週替りで多少の変動はあるものの、古今東西なんでもござれだ。内装はもちろんレモン色を貴重としていて、頭上ではその昔、歴史的なヒットをとばしたという男性ボーカルが歌う切ないバラードが流れていた。徹底的である。
 カラン、と氷のぶつかる音がして、ふと視線を上げると正面の席でスカッシュを啜るクラスメイトの姿があった。
 物珍しい模様が描かれた背の高いグラスの中には、薄くスライスされたレモンが淡い気泡をまといたゆたっている。
 一筋の金色が走るグラスの縁には、ご丁寧にもくし形に切られたレモンが飾られていて、彼は時おり表面に浮かぶ大きな氷をストローの先でつついていた。
 日曜、時刻は深夜零時。
 本来であれば、ごく普通の高校生である僕たちが外出するには相当不適切な時間ではある。
 しかし、どうしてもこの時間でなければならない理由があった。
 ただでさえ掲げられたテーマが特徴的なこの店は、日曜の深夜から明け方までの限られた時間しか営業をしていないのだ。
 今日こうして目の前の男から誘われでもしなければ、僕はこの店の存在を一生知らずにいただろう。
 ではなぜ今彼とともにこの店に居るのかというと――正直なところ、それはよくわからない。
 改めて手元を見れば、クリーム色の皿の上に四角いレモンケーキが鎮座していた。天面にはぽってりとしたアイシングがかけられ、その上に粗く砕かれたピスタチオとレモンピールが散らされている。
 フォークを手に取り、角をひとつ削って口へ運ぶ。
 すると、どこか懐かしさを感じる爽やかな風味が口の中いっぱいに広がった。



  ◇



「美味しかったろう? あそこのウィークエンド・シトロン」
「あのレモンケーキのことかい? そんな立派な名前がついていたんだね。うん、文句なしに美味しかった」
 屈託なく弾んだ声音に、つられるように笑んで頷く。時刻は間もなく午前二時を過ぎようとしている。思いのほか、真夜中のティータイムをたっぷり満喫した僕たちは、肩を並べて静かな夜道を歩いていた。歩道には街路樹が立ち並び、新緑をいっぱいに広げた枝葉の隙間から月明かりがこぼれていた。
「それならよかった。僕もあのケーキは気に入ってるんだ」
 そう言うと彼はにっこりと微笑んだ。こんな夜更けにも関わらず、彼が笑うとそれだけであたりの空気がふわりと華やぐような気がするのが不思議だった。今日に限っては背負った夜に、まるで星屑の欠片がきらきらと散るかのように。
「それにしても驚いたよ。優等生の君から、まさかこんな誘いを受けるだなんて。いったいどういう風の吹き回しだい?」
 素直な疑問をぶつけると、半歩先を行く男はちらりとこちらを窺って「迷惑だったかな?」と殊勝そうな声音で――しかし浮かべた表情はどこか面白そうに――小首を傾げてみせた。それにはすぐさま首を振って答える。
「いいや、非日常を体験できて楽しかったよ」
「だろう? それに、僕が優等生だなんて、君はなあんも分かっちゃいないね」
「そうなのかい?」
 そうさ! と彼は豪快に笑って、悪戯っぽい笑みを浮かべながら僕の顔を覗き込んだ。
「あの店には面白いジンクスがあってね」
「ジンクス?」
「そう。なんでもあそこを訪れた二人組は皆、両想いになれると言うんだ」
「両想い?」
 思いがけない言葉に、つい足を止め、きょとんと彼を見返した。男はそんな視線を受け止めながら「それをどうしても確かめたかったのさ」と、何食わぬ顔で言ってのけた。
「誰かにいっぱい食わされたんじゃないのかい? そんなことあるわけないよ。それに実験するにしても選ぶ相手が悪い。だって君と――僕だろう?」
「さあ、それはどうかな」
 夜空に向かい、あっけらかんと言い放った男は、踵を返してこちらにくるりと向き直る。街路樹がちょうど途切れた。月明かりの下に晒された彼は、今までとはまるで違う姿のようにも見えた。
「だって――」
 ふと、男の気配が近づいた。黒く大きな瞳の中には、どういうわけか僕がいる。
「君はもう、あれを食べてしまったんだから」
 その言葉は、まるで波紋を描くように身体の奥底にまで染み透った。すぐそばの空気が震え、はっとして顔を上げる。咄嗟に口をきこうとすると、いつの間にか転がり込んだレモン味の飴玉が、舌の上で驚いたように跳ねた。

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