地球に優しい男とは

 俺は今、すごく緊張している。
 その原因は、眉間に皺を寄せながら座る、隣の美丈夫のせいだ。
 大学からの帰り道、偶然にも駅のホームで鉢合わせになり、うっかり声を上げてしまったのが失敗だった。
 男はギロリと睨みをきかせ、小さく一言「何」と低い声で呟いた。

 大学での他人の認識率は極めて低い。
 現在通うキャンパスは、マンモス校と呼ばれるほどの規模ではないものの、老若男女、それまでの学校生活とは比べ物にならないほど多くの人々が行き交うのだから当たり前だ。例え同じ授業、隣の席に座ったとしても、よほど親しく会話でもしない限り、学年はもちろん、どんな名前であるか、はたまたどんな姿をしているのかさえ分からないということがざらにある。特に自分のように平々凡々としている人間となればなおのこと。他人からの認知は極めて稀であると自覚しているし、その逆も然りだ。つまり友だちも多くはない。
 しかし目の前の男は違った。
 先ほど挙げた事例をことごとく覆すように、恐らく今日日、学内で彼を知らないという人間は恐らくいまい。
 それにはいくつかの理由がある。
 一に、作り物かと見まごう端正な顔立ち。
 男の持つ形のいい瞼に縁取られた怜悧な瞳にぶつかれば、誰しもが必ず釘付けとなる。彼とひとたびすれ違えば、どう抗っても二度見は免れない。
 二に、平均身長の俺でさえ見上げてしまうような長身。
 線は太過ぎず細過ぎず、一見優男そうにも見える体躯は、よくよく観察するとしっかりとした筋肉に覆われていることが見て取れる。
 マネキンのようにすらり伸びた手足には「スタイルがいいとはこういうことだ」と誰もが納得するだろう。
 しかし、それらの長所に真っ向から反して噂される最大の特徴がただ一つ。

 専ら、性格が、悪いらしい。

 真意のほどは定かではないが、しかし完璧な外見との見事なギャップが手伝って、彼の周りには常にマスコミ性が絶えない。
 そんな男に、単純に興味を示した俺に数少ない友人の一人には「あいつには関わるな」と両肩を力強く揺さぶられながら、それこそ目を見据えられ、全力で諭された。しかし元来天邪鬼気質な俺は、人から駄目だと念を押されるほど、好奇心が膨れ上がるというもの。そして何事も自分で確かめなければ気が済まない質なのだ。
 そのため日ごろは特に平静を装いつつ、ことある事にしっかりと件の男を観察し続けていた。そして内心どこかで、いつかいつかと来たるチャンスを待っていたのだ。それがついに思わぬところから舞い込んできたのである。

 「何」と問われて、反射的に「何も」と答えた。
 なんとも陳腐な表現だが、見た目と寸分違わぬいい声に思わず息を呑む。返事が震えなかっただけ自分を褒め讃えたいと思った。
 男は、ほんのわずかに眉を顰め「あそう」と気だるげにこぼすと、ドアの向こうに滑り込んだ。その背中をついつい、しかし半分は意図的に追い掛けていた。
 この時間帯の車内は比較的空いている。事実人影もまばらで、シートの一番端に腰掛けた彼を見て、一瞬だけ逡巡し、なけなしの勇気を振り絞ってその隣に陣取った。ここで他の場所に腰を据えても、どうせ自分のことだ、彼が気になって挙動不審になることは明白だった。自意識過剰気味に嫌な顔をされるかな、と身構えたものの、自分のことなんかは存在しないような空気に、ほっとするやらもの悲しいやら、なんとも複雑な気分になる。初めのうちこそ極めて冷静な態度を努めていたが、しかし次第にちらちらと横目で男の様子を窺ってしまう自分がいて、あまりに居た堪られず、ようやく声をかける決心がついた。
「トオル、俺頑張るよ」と心の中で友人の名前を呼び、ぐっと喉に力を込める。例えここで切り捨てられても旅の恥はかきすてだ。そう何度も自分に言い聞かせ、遂に口を開いた。
 まず初めに同じ大学だと言えば、一度だけ見下すような視線を投げられた。
 大丈夫、想定内だ。と、汗ばむ拳に力を込める。泣いてなんかいない。
 その後も怯まず、学部、学科、専攻科目など次から次へと質問を投げていくと、さすがに彼も何かを諦めたのか面倒くさそうにではあるがぽつりぽつりと必要最低限の答えが返ってくるようになった。
 開きかけた扉。そんな感触に気を良くして下宿先と最寄り駅──なんと意外にも近所だった──まで聞き出したところでまだ自分が名乗ってすらいないことに気が付いた。
 慌てて名前を告げると、一拍遅れて予想外の言葉が返ってきた。
「知ってる」  そのたった一言に、まるで雷に打たれたような衝撃を受ける。あれほど止まらなかった言葉の波が音を立てて一気に退いた。
 それを見計らったように「そろそろ黙れ」と低く言われれば、思わず縮み上がるように前を向き、姿勢を正した。
「ごめん」と一応の謝罪を述べてみたが、彼はすでに視線を反らして窓の外を眺めている。

 ──やっぱり怖えぇ!

 先ほどまでとは状況が一変し、二人の間に冷ややかな沈黙が流れた。
 まるで記念写真を撮るように、膝の上で拳をぎゅっと握りしめ「トオル、お前が正しかった」と一人胸中で呟いたところで、遠くでカラカラという乾いた音を聞いた。
 ふと音のする方に視線を向ければ、車両の隅の方、誰かが放置していったのだろう、見慣れたロゴが描かれたコーヒーの空き缶が車両の間コロコロ、カラカラと縦横無尽に転がっているのが見えた。そしてその近くに座る乗客が音のたびに顔を上げ、迷惑そうな視線を向けている。しかしそれを拾おうとする者はいなかった。
 空き缶が放置されているという事にはもちろん、不愉快な顔を見せつつ、無関心さを装う乗客に多少呆れた気持ちになる。

 ──嫌なら拾えよ。

 そう思って空き缶に視線を戻すと、それはドアにぶつかり向きを変え、今度はこちらに向かって転がり出した。
 一つだけ小さく溜め息を吐き出し、腰を浮かして腕を伸ばしたその瞬間。一拍早く横から伸びた長い腕が、こともなげに目の前の空き缶を拐っていった。
 何が起きたのかわかるまでの長い一瞬。加えて次に押し寄せる衝撃の波。想像以上に大きな感動に、思わず整い切った横顔を勢いよく振り仰いだ。しかし等の本人は表情を変えず、自分の足元に空き缶をコツン、と据えると視線を外に向けてしまった。
 一方の自分はといえば、男の意外な行動を目の当たりにして「トオル、やっぱりお前は間違っているかもしれない」と心の底からひとりごちた。たったこれしきの事なのに、どんどんと心拍数が駆け上がっていくような気がして、それが妙におかしかった。
 数分後、二人の間に落ちた重たい沈黙を破るように聞き慣れたアナウンスが頭上に流れる。先ほど聞き出したばかりの彼の最寄り駅──俺のそれより一つ前だ──に到着したことが分かった。
 徐々にスピードを落とした電車が完全に停車すると、彼はゆったりと立ち上がり、ごく自然な動作で床に置かれた空き缶を手に取り何も言わずに電車を降りて行った。
 その姿をぽかんと見つめていると、次の瞬間、自分の視界がまるでモノクロから鮮やかに色付くような錯覚に見舞われた。
 まてまてまて、と脳みそがフル回転を始める。どうどうと音を立てて血液が身体を巡るのが分かった。
 男の背中を目で追うと、ホーム据え付けのゴミ箱にぽいと空き缶を放る姿が見えた。得体の知れない慟哭が喉奥を衝きそうになる。

 ──地球に優しい男が、人に優しくないわけがない!!

 胸のうちで絶叫すると、勢い良く立ち上がり急いで電車を飛び下りた。 一瞬、背後で不穏な動きをしたホームドアに申し訳ない気持ちを抱きつつ、形のいい後頭部を正面にとらえる。ホームへの階段を登ろうと、長い足がステップを一段踏みしめたその背中に、ありったけの勇気を振り絞って声をぶつけた。
「俺、これから飯食べるんだけど!」
 だからなんだ、と我ながら意味不明な言葉だと思う。しかしそれは、存外にしっかりと相手の元へ届いたらしい。これまで出会った人間の中で最も美しいと感じた顔が、階段の手前大きく歪むのが見えた。

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